アコースティック・サウンドで静的な側面にフォーカスした「MIZUTANI / Les Rallizes Dénudés」がカセットテープでリリース!
裸のラリーズ・水谷孝自身の名前を冠した「MIZUTANI / Les Rallizes Dénudés」が、カセットテープでリリース!アコースティックで内省的な、裸のラリーズの核・水谷のパーソナルな面が垣間見える重要作。
1970年の京都で、水谷孝と久保田麻琴が邂逅し作り上げた、ラリーズの歴史上でも異色の音源だけで構成された内容となっている。
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【松山晋也氏による裸のラリーズ 『MIZUTANI / Les Rallizes Dénudés』解説】
本作は、1991年にリヴィスタ・レーベルから限定発売された裸のラリーズの3作品のうちの1枚である。水谷孝本人が選曲とマスタリングに関わったリヴィスタ盤はラリーズ名義のアルバムとしては唯一の公式作品だが、各盤とも限定プレス(『'77 Live』は1000枚、『'67-'69 Studio et Live』と本作『MIZUTANI / Les Rallizes Dénudés』は500枚)でのリリースであり、あっという間に市場から姿を消した。以後、それらは中古市場で異常な高値をつけ、また海賊音源が世界中に出回ってきた。31年ぶり、しかも一時期ラリーズのメンバーでもあった久保田麻琴がリマスタリングした今回の復刻盤が世界中のファンから喝采を浴びるのは間違いない。
昨年(2021年)10月、水谷孝の死(2019年12月)の公表及び初の公式サイト https://www.lesrallizesdenudes-official.com/top/ 開設をもって「裸のラリーズ再発/発掘プロジェクト」が始動し、ラリーズ関係者によってレーベル「The Last One Musique」が起ち上げられた。件のサイトでは「裸のラリーズの音源に関する法的な権利を有した世界唯一のレーベルであり、これまで20年以上にわたって流布してきた海賊盤よりも鮮烈な音/的確なプロダクションによって、水谷孝の音楽を提供していく」というレーベルの目的が明快に宣言されている。去る4月にはまず、オムニバス盤『OZ DAYS LIVE』(73年)のラリーズ音源(未発表音源も含む)をまとめた2枚組アルバム『THE OZ TAPES』が米国のレーベルからリリースされたが、あらゆる面で「The Last One Musique」がコントロールした今回のリヴィスタ音源3作品の再発(CDとLP)こそがプロジェクトの本当のスタートと言っていいだろう。
91年のオリジナル盤は500枚しかプレスされなかったし、内容も一般的にイメージ/認識されている裸のラリーズのサウンドとは異なるため、ファンの間では影が薄いのかもしれないが、本作は海賊音源を含むラリーズの全音源の中でも最重要な一つである。と、リリース当時からずっと私は思ってきた。フィードバック・ノイズまみれの轟音ギター・サウンドと冥界からこだましてくるようなリヴァーブ効き過ぎのヴォーカルがもたらす愉悦はラリーズにしかない特別な魔力であると、もちろん私も思う。しかし断じて、ラリーズ=轟音ではない。轟音だけでラリーズを語ることは許されない。暴力的、破壊的な轟音の向う側には、常にクール&スウィートなリリシズム、エロティシズムが揺らいでおり、実はそこにこそラリーズというか水谷孝の本質はあるわけで、それを感受できなければラリーズ/水谷の本当のすごさ――高潔な残酷さ、絶望的虚空は理解できない。それが、70年代から何度もライヴを体験し音盤も海賊音源を含め膨大な量を聴いてきた私の確固たるラリーズ観である。
ライヴを観たことがある人なら誰もが憶えているだろう。開演時間が過ぎても水谷はステージになかなか現れず、客は2時間でも3時間でも待たされた。ミラーボールの光が煌めき、モダーン・ジャズ・クァルテットなどクール・ジャズのBGMが静かに流れる薄暗い会場で、客はじっと静かに待つだけである。しかし私は、ちっとも苦ではなかった。この薄暗く冷ややかな空間に孤独な身を浸し続けることから既にラリーズのライヴは始まっていることを知っていたから。宙づりになったその静けさが孕む孤独の深さこそがラリーズ/水谷の本質だと思っていたから。水谷も、ただの我がままや気まぐれで開演を引き延ばしているわけではなく、いつまで続くのかわからない待ち時間を、放置された虚空と不安を、爆音と表裏一体の甘美な序曲として我々に提供していたのではないかと思う。久保田麻琴が水谷の親族から聞いた話によると、水谷は自宅で頻繁にセルジュ・ゲンズブールの監督映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』のテーマ曲のオルガン・インスト・ヴァージョン(サントラを担当したジャン=ピエール・サバールによる演奏)を爆音で聴いていたという。あのインスト・ヴァージョンに漂う法悦と苦悩こそは、生涯、光と闇、生と死の間を往還しながら虚空を彷徨い続けたゲンズブールそのものと言っていいが、水谷孝の本質もまたそこにあったと私は思う。そしてそれを最も明瞭に表しているのが、このアルバムなのである。
「疲れた。静かな音楽をやりたい。手伝ってくれないか?」。69年秋に同志社大学のキャンパスで偶然再会した久保田麻琴に水谷はそう語りかけたという。68~69年、日本中の大学で学生運動の嵐が吹き荒れ、裸のラリーズ(67年11月結成)のメンバーもその渦中にいた。水谷はいちおう黒ヘル(アナキスト)系だったというが、彼が本当に学生運動なんぞに興味があったのかどうか、私は懐疑的だ。水谷が軽音楽部の仲間だった久保田に久々に会ったのは、69年10月18日にラリーズが京都教育文化センターでおこなった「免罪符としてのリサイタル№2」なるコンサートの直後だ。これは、第一期ラリーズの最後のコンサートであり、また、久保田が観客として体験した初めての爆音ロックでもあった。久保田は元々ジャズやR&Bが好きで、軽音楽部でもボサノヴァなどを演奏していた。そして、オープン・リールのテープレコーダー2台でのピンポン録音を楽しむ宅録マニアでもあった。久保田は12月頃から水谷のアパートに通い、水谷と一緒にギターをつまびきながら曲を作り始めた。そんなことをしているうちに「デモ・テープでも録ってみよう」ということになり、同志社大学の学生会館内にある放送室(と呼ばれていた場所)において一晩で録音されたのが、本作の①~⑤の音源だ。70年2月頃だったという。
放送室にはモノラルのテープレコーダー2台、簡素なミキサーとマイクがあった。久保田は自宅でのピンポン録音で手順を熟知していたので、録音作業はスムーズに進んだという。まず、ヴォーカルも含むベイシックなトラックを一発録りし、それをプレイバックしながらもう1台のテレコでギターなどがダビングされた。水谷はヤマハのセミアコ・ギターを弾きながら歌い、久保田はマーチンもどきのアコースティック・ギターに水谷から借りたサウンドホール・ピックアップを付けて弾いた。基本的には水谷がリズム・ギター、久保田がリード・ギターを担当したが、水谷と久保田が共作した②「朝の光」のようにギター1本の曲では久保田が演奏した。当時の久保田は、米国の新しいフォーク・シーンのシンガー・ソングライター/ギタリストたち(リッチー・ヘヴンスやティム・ハーディン、ジョニ・ミッチェル等々)が大好きで、とりわけブルース・ラングホーン(ボブ・ディランの「ミスター・タンブリン・マン」のモデルになった人物)の演奏スタイルからは強い影響を受けていたという。
パーカッションで参加している牧野忠央については、「水谷くんが連れてきた。茶壺の口に皮か紙を張って叩いていた」と久保田は語る。気分的には、ティラノザウルス・レックス時代のスティーヴ・トゥックのようなポジションだろうか。彼は④「断章2」ではトライアングルも叩いているが、②「朝の光」と⑤「亀裂」のグロッケンシュピール(鉄琴)は久保田である。
また、③「断章1」の作詞者としてクレジットされている昆野正紀は、様々な資料では、初期ラリーズのメンバーだったと書かれているが、正確にはメンバーではなくバンド周辺の友人で、水谷とは同志社詩歌研究会の仲間だったという。④「断章2」の作詞者である塚一行についてはよくわからないが、71年に暗殺命令社なる版元から「伝言:塚一行詩集」という詩集を出した人物の可能性が高い。もっと言うと、塚一行は水谷孝本人だったのではないか…(だとしたら、「塚」は歌人にしてシャンソン評論家でもあった塚本邦雄からとったものか?)とも私は思っている。“オーロラはタバコのけむり…”に始まるシュールな言葉の連なりは、フランス文学、特に世紀末象徴派に精通していた水谷の世界観そのもののように感じるから。
水谷、久保田、牧野の3人はこの録音の後もしばらく一緒に活動し、70年に2~3回ライヴをやった。その最初の音源の一つが、本盤の⑥「The Last One _1970」だ。久保田の記憶によれば、これは70年5月に同志社大学でおこなわれた新入生歓迎の学生主催コンサートで、彼らは南正人、遠藤賢司と共に出演したという。水谷は翌71年には南正人のアルバム『回帰線』の録音に参加するが、二人の最初の出会いはこのコンサートだったのかもしれない。⑥での演奏も水谷がリズム・ギターとヴォーカル、久保田がリード・ギターでスタートしたが、途中で水谷は突然ファズを踏みリード・ギターにスウィッチしている。この時代の過渡期ラリーズならではの演奏である。この曲はその後もずっとラリーズの代表的ナンバーとして演奏され続けたわけだが、同名異曲と言っていいほど構成もサウンドも時代ごとに変化していった。だからか、今回の再発盤では曲名の末尾にわざわざ「_1970」が付けられている。今回同時再発される『'67-'69 Studio et Live』と『'77 Live』に収録されている「The Last One」と聴き比べていただきたい。
久保田、牧野とのトリオ版ラリーズはその後、70年9月13日には京都の円山野外音楽堂でのイヴェント「円山オデッセイ」(出演はフラワー・トラヴェリン・バンド他)にも参加したが、この頃水谷は、チャー坊や山口冨士夫らのグループ(後の村八分)を従えて演奏するようにもなっており、コンサート当日にはそのラリーズと、久保田たちとのラリーズの二つが出演するという奇妙な事態となった。そしてこのコンサートの直後の9月後半に、久保田は大学を休学して渡米する。彼は71年3月末の帰国後に復学し、水谷が70年秋から東京で再編していた新ラリーズ(ベイスは長田幹生、ドラムは正田俊一郎)に参加するようになった。71年6月の渋谷BYGでの「裸のラリーズ 3Days」(日替わりの対バンは、はっぴいえんどや南正人、つのだひろ等)や、8月のフェス「精進湖ロックーン」など、更に72~73年の吉祥寺OZなどでのライヴて随時ベイスやサイド・ギターを担当したが、74年からは自分のバンド「夕焼け楽団」が忙しくなり、ラリーズを離れたのだった。夕焼け楽団の始動と前後してリリースされた久保田の初ソロ・アルバム『まちぼうけ』(73年)には、自身が作曲した本盤②「朝の光」のセルフ・カヴァー・ヴァージョンも収録されている。
そして、今回の再発ではCD版のみに収録されることになった本盤⑦「黒い悲しみのロマンセ」だけは、久保田、牧野とのトリオではなく、水谷と長田幹生と正田俊一郎、72年にサイド・ギターとして復帰したラリーズの初代ギタリスト中村武志(現・写真家の中村趫)による73年のライヴ音源(明治学院大学)である。イントロでギターがゆっくりとリズムを刻む部分は、この後、変化を続けていた「The Last One」へと吸収されることになる。多くのファンがイメージ/認識する裸のラリーズのサウンドは、この頃、完成に向かいつつあったのである。
ちなみに、今回再発されるリヴィスタ盤3作品(そして『OZ DAYS LIVE』)のすべてに演奏が収録されている水谷以外の唯一のメンバーが中村だ。そもそも彼はラリーズ誕生のきっかけを作った(中村が軽音楽部の仲間である水谷に声をかけた)重要人物なのだが、69年初頭にはバンドを抜け、以前から好きだった写真に本格的に打ち込み始めた。しかし、72年にギタリストとしてラリーズに復帰するまでの間も、ライヴ現場で彼らの写真を撮るなど、ラリーズとの絆はずっと維持されていた。私は、2021年10月に京都で開催された彼の写真展にも足を運んだが、ほとんどがラリーズとは関係ない作品であるにもかかわらず、その空間は見事まなでにラリーズの世界そのものであり、前述した水谷孝の本質を具現化しているようにも感じられた。その時に聞いた中村の言葉は今も忘れられない。
「これはもう身体に沁みついたものなんです。表現の手法は違っていても、そういう意識はずっとある。そしてそれは、ラリーズ時代からずっと自分が引きずってきたものだと思う。ラリーズに関わった人間は、きっと全員がそうでしょう。水谷さんとの出会いがすべての原点だった。彼の人間的魅力はもちろんだけど、そのもっと向う側にある何かを皆が感じとり、自分なりに昇華させていったんだと思います」。
中村は77年末には再びラリーズを抜け、その後様々なミュージシャンがラリーズに参加していったわけだが、中村の言葉はおそらく全メンバーに共通する思いだったのではなかろうか。水谷孝とは、天使であり、悪魔でもあった。
2022年7月28日 松山晋也/Shinya MATSUYAMA
裸のラリーズ / MIZUTANI / Les Rallizes Dénudés[Cassette Tape]DRFT06
FACE A
1. 記憶は遠い / Memory is far away
2. 朝の光 L’AUBE / Morning Light, L’Aube
3. 断章 Ⅰ / Fragment I
4. 断章 Ⅱ / Fragment II
5. 亀裂 / FissureFACE B
1. The Last One _1970